岐阜、清流長良川___江戸時代から岐阜の花柳界は存在する。この地から沢山の芸伎が生まれた。

水運で栄えた長良川近郊は、鮎の漁猟場でもある。天皇家への献上鮎として歯形の鮎が毎年献上されてきた。

五月に始まる鵜飼。十月までの約五ヶ月間、岐阜の芸伎は鵜飼観覧船と共に忙しくなり、一夏を終える。鵜飼開きでは「今年もお頼み申します。」終われば「来年もお頼み申します。」そんなこの地ならではの風景と船遊びが岐阜芸伎の特徴で有り、一つの大きな魅力である。

三業の一つ、お茶屋「満豊」は、かつてお茶屋さんが多く立ち並んだエリア、東高岩町の一角に今もなお、座敷を構えている。お茶屋の母屋に隣接して置屋を兼ねた「満豊はなれ」も在り、お茶屋・置屋共に東海圏で唯一ここだけとなった。

お茶屋・置屋のおかあさんは、長年この地で芸伎として生き、芸事に勤しんで来た。今では鳴物のお師匠さんとして子ども教室等を開き、邦楽・お囃子を教え伝えている。

置屋のおかあさんを中心に鳳川伎連、そして岐阜伎芸学校は出来た。宴席に華を添える全国の芸伎連中は見番(検番)等と呼ばれる組合なる組織に所属している。

また、東海圏では古くより「連」と呼ばれる芸伎同志の運営で組織する小規模形態をも持ち合わせて来た。鳳川伎連も小さな「連」ではあるが、全国区で活躍している。

その歴史は決して古くはない。平成に入ってから生まれた乳のみ児だ。新たな息吹に期待されたい。岐阜舞妓を復活させる処から鳳川伎連は幕を開けたが、それを機に男性の芸伎「幇間」も誕生した。舞妓の指導役・直属の上司として「おにいさん」を務める。

愛知の岡崎で花柳界の東西を分けると岐阜は西に属する。西では「芸者」、東では「太鼓持ち」と呼ばれているが、その様子は少しばかり毛色が異なって見えるだろうか。

現在、西の幇間は岐阜にしかいない。沢山の幇間がいた大阪や京都・奈良にさえもいない。ゆえに西日本、関西型として奮闘している。

鳳川伎連からデビューした舞妓・中花芸妓・幇間等はそれぞれ、引いたおにいさん「喜久次」の名前を一部戴いている。女の子等は「喜久」の上二語を取り、男の子等は「次」の下一語を取った。___辰次は鳳川伎連が養成した、最初の幇間である。



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